徳川政権下で豊臣の影を背負う外様大名が、改易の嵐が吹き荒れた江戸初期を生き残れた背景には、明確な政治的理由がありました。
最大の理由は、北政所(ねね)の存在と徳川家康の政治的配慮です。ねねは関ヶ原の戦い以降、徳川方と良好な関係を保ち、豊臣と徳川の緩衝材として機能していました。家康にとって、ねねの実家である木下家を丁重に扱うことは、旧豊臣恩顧の武将たちに対する融和政策として極めて有効だったのです。
また、足守藩・日出藩の歴代当主が幕府に対して徹底した恭順姿勢を貫いたことも功を奏しました。日出藩木下家は交代寄合や幕府の諸役を実直に務め、足守藩木下家は蘭学や学問を奨励し、幕末には緒方洪庵らを輩出する土壌を築くなど、軍事色を薄めて文化・治世に秀でた藩運営を行いました。
こうして木下家は一度の改易もなく260年以上の江戸時代を全うし、明治維新後には両家ともに華族(子爵)に列せられました。