すし 久の暖簾をくぐると、明治から続く百余年の歴史と五十鈴川の清らかなせせらぎが一気に押し寄せてくる。伊勢神宮・内宮の参道である「おはらい町」に深く根を下ろすこの老舗は、2026年を迎えた現在も、訪れる者の心を掴んで離さない。深く漬け込まれた濃密な鰹の赤身、甘みと酸味が優しく調和する酢飯。それらが直径ひとつの漆器のなかで溶け合う瞬間、私たちは単なる名物料理の枠を超えた、伊勢の気候風土と職人の技が紡ぎ出した至高の食文化に触れることになる。
朝もやが川面を包む早朝、参道にはかすかに醤油と出汁の芳醇な香りが漂う。世界的なサステナブル・ガストロノミーの広がりとともに、歴史的建築の真正性(オーセンティシティ)に光が当たるいま、この伝統的な空間で提供されるすし 久のてこね寿司は、旅の記憶に強く刻まれる体験そのものだ。軋む床板の音や手入れの行き届いた柱の質感、そして窓の外に広がる四季折々の風景。五感のすべてを研ぎ澄まして味わう一刻は、効率ばかりが求められる現代社会において、何物にも代えがたい贅沢だ。
明治2年建築、伊勢神宮の古材が今も呼吸する圧巻の空間
おはらい町の中ほどを進むと、一際目を引く重厚な木造建築が佇んでいる。現在の建物は明治2年(1869年)に建てられたものだ。かつて伊勢神宮の式年遷宮の際に、旧宇治橋の鳥居の木材などを一部拝領して建築されたと伝えられており、建物自体が神聖な記憶を宿している。
一歩足を踏み入れれば、高い天井を支える太い梁と、長い年月を経て深みを増した艶やかな木肌に目を奪われる。2階の広々とした座敷へと上がれば、大きな窓の向こうに五十鈴川のゆるやかな流れが広がる。風が吹き抜けるたびに心地よい木の香りが鼻腔をくすぐり、時が止まったかのような静けさが満ちていく。
漁師の知恵が生んだ最高峰の郷土料理「てこね寿司」の秘密
「てこね寿司」はもともと、志摩半島の漁師たちが忙しい漁の合間に、獲れたての鰹を醤油漬けにして手で豪快に混ぜ合わせて食べたのが始まりとされる。海の男たちの質実剛健なファストフードが、洗練を重ねて現在の形へと結実した。
美味しさの核となるのは、新鮮な鰹の赤身と幾重にも工夫が凝らされた秘伝のタレだ。濃厚な醤油タレにサッと潜らせた赤身は、ねっとりとした甘みと強烈な旨味を放つ。硬めに炊き上げられた酢飯に大葉や生姜の爽やかな薬味が重なり、一口ごとに深みのある味わいが広がる。計算し尽くされたバランスの前に、ただ夢中で箸を動かすほかない。