そもそも、なぜイタリアの首都ローマのど真ん中に、これほど極小の独立国家が誕生したのでしょうか。その背景には、中世から続く教皇権能の歴史と、近代イタリア統一に伴う激しい政治対立のドラマが存在します。
かつてローマ教皇は、イタリア半島中部に広大な領土を持つ「教皇領(教皇国家)」の君主でもありました。しかし19世紀後半、イタリア統一運動(リソルジメント)の進展によって教皇領は次々と併合され、1870年にはイタリア王国軍がローマを占領。教皇領は完全に消滅しました。当時の教皇ピウス9世はこれに激怒し、自らを「バチカンの囚人」と称して宮殿内に閉じこもり、イタリア政府との一切の対話を拒絶する「ローマ問題」が約60年間にわたって泥沼化しました。
この対立を終結させた決定打が、1929年2月11日に締結された「ラテラノ条約」です。当時のイタリア首相ベニート・ムッソリーニと教皇ピウス11世の間で結ばれたこの協定により、イタリア政府は教皇庁の主権と「バチカン市国」という極小領土の独立を正式に承認。引き換えに教皇庁はローマを首都とするイタリア王国を承認し、多額の財政補償を受け取りました。
教皇庁が独立国家という形態に固執した最大の理由は、「いかなる世俗国家・世俗政権からも政治的介入を受けない純粋な中立性」を確保するためでした。全世界13億人以上の信徒を導く宗教指導者が一国の法律や軍事力に支配されていては、国際的な調停役や精神的権威としての正当性を保てないからです。極小の面積でありながら独立国家を維持する選択は、信仰の自由と外交的独立を守るための不可欠な防壁だったといえます。