福島正則の菩提寺「春岳院」の歴史と遺骨の真相|須坂市巡り

福島正則の菩提寺「春岳院」の歴史と遺骨の真相|須坂市巡り

福島正則の菩提寺「春岳院」の歴史と遺骨の真相|須坂市巡りに関する専門家の意見を詳しく解説いたします。

寛永元年(1624年)7月13日、福島正則は信濃高井野の屋敷にて64歳で急死しました。この突然の死の直後、日本の武家史上でも類を見ない緊迫した事件が勃発します。

当時の幕府の法度では、知行地を持つ旗本・大名が死去した際、幕府から派遣される「検死役(幕吏)」が現地に到着して遺体を確認するまで、埋葬や火葬を行うことは厳禁とされていました。江戸から信濃高井野までは早馬を使っても数日を要します。夏の盛りの7月中旬、遺体の腐敗が進むことは避けられない状況でした。

正則の側近であった重臣・津田清右衛門らは、主君の遺骸が腐乱して無様な姿を晒すことは、戦国を駆け抜けた大武将の尊厳を著しく冒涜することになると判断。幕府の検使が到着する前に、独断で正則の遺体を荼毘(火葬)に付したのです。その後、高井野に到着した幕使・堀田正吉らは遺体がすでに灰となっていたことに激怒。幕府は「検死を待たずに火葬した不届き」を理由に、残されていた福島家の領地2万石を全て没収し、お家取りつぶし(除封)の断罪を下しました。

家禄を失うことを完全に予見しながらも、主君の名誉と尊厳を守るために火葬を断行した家臣たちの行動は、主従の心理的バウンダリーを超えた究極の忠誠心の表れといえます。家臣たちは正則の遺骨を分骨し、高山村の岩松院や京都の妙心寺海福院、そして須坂の地に手厚く葬りました。こうして正則の法名である「春岳院殿前濃州大守月翁助公大居士」から名を取り、その魂を永劫に弔うために建立された菩提寺が「春岳院」です。

小林 直樹
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小林 直樹

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