豊臣秀長の命を奪った病魔の正体について、当時の第一級史料である奈良・興福寺の僧侶が記した『多聞院日記』や公家の日記には、秀長の生々しい闘病の様子が記録されています。豊臣秀長の病気と最期を辿ると、異変が表面化したのは天正17年(1589年)頃のことでした。秀長は激しい腹痛や体調不良を訴え始め、翌天正18年の小田原征伐には出陣すら叶わないほど衰弱していたことが分かっています。
歴史医学や古記録の病状分析において、豊臣秀長の死因として胃がんをはじめとする消化管の悪性疾患が最有力視される理由は、その進行プロセスにあります。初期の倦怠感から始まり、次第に食事を受け付けなくなり、数年をかけて極度の削痩(衰弱)に至る経過は、現代でいうスキルス胃がんや進行性胃がんの典型的な臨床像と合致するためです。
当時、秀長の回復を祈願して大和国内の寺社では大規模な平癒祈祷が執り行われました。『多聞院日記』天正18年10月の条には、秀長の病状悪化に伴い領民や寺院が騒然となる様子が記録されており、単なる風邪や一時的な疲労ではなく、内臓を深く蝕む不治の重病であったことが明白に読み取れます。豊臣秀長の享年・年齢は数え年で52歳、満年齢にしてわずか50歳前後でした。天下統一が目前に迫る中での早すぎる離脱は、本人にとっても無念極まるものでした。