山梨県出身である宮沢和史にとって、沖縄の音楽や歴史を表現することは容易な決断ではなかった。本土(ヤマトンチュ)の人間が、沖縄の深い傷痕や伝統文化を歌の題材にすることに対して「侵略的ではないか」「軽々しく扱ってよいのか」という凄まじい葛藤と葛藤の日々があったという。
だからこそ宮沢は、沖縄の音楽界の重鎮や現地の人々に自ら教えを乞い、誠心誠意の対話を重ねた。単なる一時のブームとして消費するのではなく、沖縄の文化に対する深い敬意と、加害と被害の歴史を直視する誠実さを貫いたのだ。その姿勢はやがて現地の人々の心を動かし、沖縄と本土をつなぐ真の架け橋としての信頼を勝ち取ることとなった。