秀吉の晩年を象徴するもう一つの影が、二度にわたる文禄・慶長の役(朝鮮出兵)です。日本国内を統一した後に明国の征服を目論んだこの大遠征は、無謀な誇大妄想や狂気の沙汰として批判されることが少なくありません。
背景には、武士階級の莫大なエネルギーを国外へ向けなければ国内の内乱が再発するという統治上の懸念と、「自らの才覚ならアジア全土を支配できる」という肥大化した全能感がありました。国内で無敵を誇った成功体験が、現実的な兵站や異国の情勢判断を狂わせてしまった形です。
さらに、秀吉の性格の歪みは極端な女性関係にも影を落としています。正室のねね(北政所)を深く敬愛しながらも、主君・信長の姪である淀殿(茶々)をはじめ、名門武家の娘を次々と側室に迎えました。これは単なる好色さだけでなく、「名門の血筋を手に入れたい」という出自へのコンプレックスの裏返しでもありました。高齢になって授かった秀頼と淀殿への過剰な執着は、豊臣政権内部の派閥対立を深め、皮肉にも秀吉の死後に豊臣家が滅亡する火種となったのです。