大坂落城の際、秀頼の嫡男であった当時8歳の豊臣国松は逃亡を図るものの捕らえられ、京都の六条河原で斬首されました。一方、秀頼の娘であった天秀尼(てんしゅうに)は千姫(徳川秀忠の娘で秀頼の正室)の命乞いによって助命され、鎌倉の東慶寺に入り出家しました。天秀尼は後に東慶寺の第二十世住持となり、1645年に生涯を閉じます。これにより、公式記録の上では秀吉の直系子孫は完全に途絶えたとされています。
しかし、歴史の裏舞台には驚くべき「生存説」と「血筋の継承ルート」が存在します。国松には薩摩(鹿児島県)へ逃れたという伝説があり、現地には「豊臣国松の墓」と伝わる史跡が存在します。さらに、秀吉の血統そのものは傍系を通じて確実に現代まで受け継がれています。
最も明確に秀吉の血を後世に伝えたのが、ねねの兄・木下家定を祖とする木下家です。木下家は徳川幕府のもとで豊後日出藩(大分県)と備中足守藩(岡山県)の領主として明治維新まで大名として存続しました。特に日出藩主の木下家には、秀吉の姉・日秀の血も合流しており、秀吉の親族としての遺伝的ルーツを色濃く残しています。
現在も木下家の末裔の方々は経済界や文化面で活躍しており、「太閤秀吉のルーツを受け継ぐ家」として家系図と誇りを今に伝えています。直系男子としての豊臣姓こそ途絶えたものの、一族の血筋は過酷な江戸時代を大名として生き残り、令和の現代にもしっかりと息づいているのです。