藩主としての光圀は、民政の安定とインフラ整備に目覚ましい手腕を発揮しました。水戸城下で飲料水に困っていた町民のために、全長約10キロメートルにも及ぶ「笠原水道」を敷設。これは江戸の神田上水に次ぐ日本屈指の初期上水道事業です。さらに、領内の神社仏閣の整理統合、紙や塩の専売制導入、大型船「快風丸」を建造しての蝦夷地(現在の北海道)探検など、その政策は先進性に満ちていました。
一方、幕府の中枢に対しては、御三家の重鎮として時に厳しく対立しました。特に5代将軍・徳川綱吉との関係は緊迫したものでした。綱吉が発令した極端な悪法「生類憐れみの令」に対し、光圀は強い不満を抱いていたと伝えられています。
光圀が綱吉に対し、犬の皮を数十枚集めて「寒さをしのぐための献上品」として送りつけ、暗に悪法を皮肉ったという有名な伝承は、その気骨ある政治姿勢を物語っています。幕府の専横を牽制し、正論を突きつけることができる唯一無二の重鎮として、当時の人々からも絶大な信頼を集めていました。