叡福寺の歴史を語る上で欠かせないのが、聖徳太子自らがこの磯長(しなが)の地を自らの墓所として定めたという伝承です。古代の磯長谷は、竹内街道が通る文化的・軍事的な要衝であり、推古天皇をはじめとする数多くの王族の陵墓が集中する「王家の谷」でもありました。
推古天皇29年(621年)または30年(622年)、太子が薨去すると、その遺言通りに築かれたのが叡福寺北古墳(聖徳太子御廟)です。太子の没後、推古天皇によって堂宇が建立され、神亀元年(724年)には聖武天皇の勅願によって行基が伽藍を整備したと伝えられています。
叡福寺の上の太子 歴史において特筆すべきは、御廟が「三骨一廟(さんこついちびょう)」と呼ばれる極めて珍しい合葬墳である点です。ここには聖徳太子だけでなく、太子の生母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとひめのひめみこ)、そして太子の妃である膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)の3人が共に埋葬されています。
母を中央に、前方の左右に太子と妃が並んで眠るこの配置は、偉大な政治家・宗教者としての太子の姿のみならず、母への孝養と妻への深い情愛を重んじた一人の人間としての温もりを今に伝えています。また、南河内地域には聖徳太子ゆかりの寺院として「河内三山(上の太子・叡福寺、中の太子・野中寺、下の太子・大聖勝軍寺)」が点在しており、その中でも御廟を抱く叡福寺は太子信仰の中枢として特別な尊崇を受けてきました。