人民の人民による人民のための政治は誰の言葉かという問いに対して、誰もが名を挙げる第16代大統領エイブラハム・リンカーン。しかし、彼の歩んだ道筋は栄光とは程遠く、挫折と敗北、そして精神的苦悩の連続でした。
生い立ちと泥臭い叩き上げの青年期
1809年2月12日、ケンタッキー州の寒村にある粗末な丸太小屋で生を受けました。実母の死、貧困、正規の学校教育を受けた期間は通算で1年未満という過酷な環境の中、リンカーンは薪割りの合間に聖書やイソップ寓話、シェイクスピアを読み耽り、独学で教養を身につけます。
雑貨店の店員や測量技師、郵便局長を務めながら法律を独学で修め、27歳で弁護士資格を取得。イリノイ州下院議員を経て連邦下院議員を1期務めるものの、米墨戦争への反対姿勢が反感を買い、一度は中央政界から追放される憂き目に遭いました。
奴隷制拡大反対と歴史的ディベート
1854年のカンザス・ネブラスカ法成立を機に、奴隷制の全米拡大への危機感を抱いたリンカーンは政界へ復帰。1858年のイリノイ州上院議員選挙において、現職有力議員スティーブン・ダグラスと繰り広げた「リンカーン・ダグラス論争」は、全米の注目を集めました。「分かたれたる家は立つこと能わず」と説き、奴隷制の倫理的矛盾を突いた彼の論弁は、1860年の大統領選における共和党候補指名、そして大統領就任への道を切り開きます。
南北戦争の指導と奴隷解放宣言、そして悲劇の最期
リンカーンの当選に反発した南部諸州が合衆国を離脱し、就任直後の1861年4月に南北戦争が勃発。緒戦の敗北、無能な将軍たちの交代人事、そして実子ウィリーの病死など、リンカーンは重度のうつ病(当時は憂鬱症と呼ばれた)に苛まれながらも軍の最高司令官として陣頭指揮を執り続けました。
1863年1月1日には「奴隷解放宣言」を布告。戦争の目的を「合衆国の統合維持」から「人類の自由の解放」へと昇華させ、国際社会の支持を取り付けます。そしてゲティスバーグの激戦を経て、1865年4月9日に南軍が降伏。戦争終結のわずか5日後、ワシントンD.C.のフォード劇場で観劇中、南部シンパの俳優ジョン・ウィルクス・ブースによって至近距離から頭部を撃たれ、56年の生涯を閉じました。
歴代アメリカ大統領名言 詳細まとめと位置づけ
アメリカ史に刻まれた歴代大統領の名言を比較すると、リンカーンの言葉がいかに異彩を放ち、国家の危機において「統治の理念」を再定義したかが明確になります。