一軍で結果が出なければ即座にファームへ送られる。1993年シーズンのイチローは、一軍で43試合に出場しながらも打率.188に低迷し、再び二軍での調整を余儀なくされた。この時期、チーム内では若手打撃陣の育成方針を巡って激しい議論が交わされていた。
当時、ファームでイチローの特異な才能を庇護し続けたのは河村コーチだったが、後に名伯楽としてイチローの打撃を完全に開花させる新井宏昌の存在も見逃せない。近鉄バファローズなどで通算2000安打を達成し、引退後に打撃指導者となった新井は、イチローのバットコントロールと動体視力が物理的な常識を超越していることを見抜いていた。
首脳陣の中には「打球が上がらない」「内角を厳しく攻められたらプロでは通用しない」と懐疑的な声を上げる者も多かった。しかし、現場のコーチ陣がイチローの個性を潰さないよう「防波堤」となって守り抜いたことで、天才の打撃フォームは改変の危機を免れ、二軍という安全圏で独自の進化を遂げる時間を獲得したのである。