京都であぶらとり紙という文化が花開いた背景には、この街特有の歴史的・産業的必然性がありました。時計の針を大正から昭和初期へと巻き戻すと、ふたつの現場が浮かび上がってきます。「京都・太秦の映画撮影所」と、「花街(祇園・先斗町など)のお茶屋」です。
大正時代、京都・太秦は「東洋のハリウッド」と呼ばれ、日活や松竹などの撮影所がひしめき合っていました。当時の映画撮影現場では、現在よりもはるかに熱量の高い白熱大型照明が焚かれており、銀幕を彩る俳優たちは滝のような汗と皮脂に悩まされていました。しかし、一度施したドーラン化粧は簡単に塗り直すことができません。少しでも皮脂が浮くと、強烈な光を反射してフィルムが白飛びしてしまうため、メイクを一切剥がさずに油分だけを取り除く特殊な道具が切望されていたのです。
そこで白羽の矢が立ったのが、仏教美術や伝統工芸用として西陣や金閣寺周辺で使われていた「金箔の打ち紙」でした。職人が手放した使用済みの箔打紙を俳優やメイク係が譲り受け、顔の油取りに使ったところ、ドーランを微塵も崩さずに油分だけが吸い取れる奇跡の紙として業界内に熱狂的に広まりました。
この秘密の道具は、白塗り化粧を長時間保たなければならない祇園の芸妓・舞妓たちの間にも瞬く間に伝播しました。当初は「ふるや紙」などと呼ばれ、花柳界や映画関係者など一部のプロフェッショナルだけが知る門外不出の裏方道具だったのです。それを携帯しやすいブック型に仕立て、一般の女性向けに発売したことで、京都を代表する美容文化へと昇華していきました。京都のあぶらとり紙は、単なる観光土産ではなく、「日本の映像文化と伝統芸能の美を裏で支え続けたプロ用機材」という高貴な血統を持っています。