久礼 大正 町 市場のアーケードに足を踏み入れた瞬間、鼻腔を真っ先にくすぐるのは潮の匂いと香ばしい藁の焦げる薫りだ。高知県中土佐町の海辺に佇むこの小さな市場は、夜明けとともに漁師たちが水揚げした鮮魚が所狭しと並び、威勢のいい売り声が響き渡る生きた港町の心臓部である。昭和初期の大火からの復興を記念して名付けられた大正町の名は、今や本物の味を求める全国の食通を惹きつけてやまない「土佐の台所」の代名詞となった。
早朝の静けさが嘘のように、午前を回ると狭い路地は旅人たちの熱気で満たされる。太平洋の荒波と闘う漁師たちの息づかいがそのまま残る久礼 大正 町 市場は、単なる観光施設ではなく、今も現役で息づく生活と食の最前線だ。旅人がわざわざ長距離を移動してまでこの地に集う理由、それは冷凍や近代的な流通技術がどれほど進化しようとも決して再現できない、圧倒的な鮮度と職人技の結晶に出会うためである。
炎と煙が立ち上る路地裏――百年続く土佐の魚市場の素顔
市場の通路は、大人二人がすれ違うのがやっとの幅しかない。頭上を覆うレトロなアーケードの隙間から陽光が差し込み、氷の上に並べられた鮮魚の鱗をきらきらと輝かせる。ここで供されるカツオの藁焼きタタキは、都会の居酒屋で出合える代物とは根本から別次元の存在だ。
職人が束ねた乾燥藁に火を放つと、一瞬にして数メートルの紅蓮の炎が吹き上がる。一気にカツオの表面を包み込み、皮目をパリッと香ばしく焼き締めながら、内部には一切熱を通さない。この瞬間的な高温調理こそが、魚の旨味を閉じ込める秘訣だ。切り分けられた身は、外側が温かく香ばしく、芯はひんやりと冷たい。ニンニクのスライスと刻みネギを豪快に乗せ、粗塩や特製のポン酢で頬張ると、濃厚な赤身の脂と藁の薫香が口いっぱいに広がる。
背後にあるのは、土佐の一本釣りと呼ばれる伝統漁法の矜持だ。網で獲るのではなく、一本の釣り竿で魚体を傷つけることなく一匹ずつ釣り上げる。釣り上げられた瞬間から鮮度保持の処置が施されたカツオは、身の弾力も血の澄み具合も格別である。
田中鮮魚店で味わう究極の一皿と地元民が愛する隠れ名物
市場の中核を担うのが、店頭に大魚を並べて客を迎える田中鮮魚店だ。ここでは店頭に並ぶ丸ごとのカツオや旬の魚から好みのものを選び、その場で捌いてもらって向かいの食事処で食べる「市場食堂スタイル」が定着している。自分だけの定食を仕立てる贅沢は、港町ならではの醍醐味に他ならない。
多くの観光客がタタキの定食に目を奪われる一方で、地元の常連客が静かに指名する隠れ名物が存在する。その筆頭が「ハラボ(ハラス)」の塩焼きだ。カツオの腹身にあたる最も脂が乗った希少部位であり、炭火でじっくりと脂を落としながら焼き上げたその身は、噛むほどに芳醇な旨味が溢れ出す。酒の肴としても白米の友としても右に出るものはない。
さらに、春先から初夏にかけて水揚げされる「ドロメ(カタクチイワシの生稚魚)」や、肉厚なウツボの唐揚げも見逃せない。市場のおばちゃんたちが「今日はこれが一番ええよ」と笑いながら勧めてくれる旬の小鉢こそ、旅の記憶に深く刻まれる本物のローカルガストロノミーである。