街角の祠が最高位を名乗る背景には、単なる民間伝承にとどまらない、歴史的公文書に裏付けられた明確な根拠が存在します。正一位稲荷大明神の由来を遡ると、平安初期の朝廷による叙位制度に突き当たります。
神階とは、朝廷が神社や神宮に対して授けた位階のことです。京都の伏見稲荷大社は、弘仁14年(823年)に空海(弘法大師)が東寺の鎮守社として定めて以降、朝廷からの篤い崇敬を受けました。天長4年(827年)の「従五位下」授与を皮切りに昇進を重ね、承平年間を経て、ついに建久5年(1195年)12月、後鳥羽天皇の行幸に際して最高位である「正一位」が授けられました。
このとき出された決定的な勅許が、「本社勧請の神体には『正一位』の神階を書加えて授くべき」という内容でした。公文書の記録によれば、伏見稲荷大社から神体を勧請(かんじょう:神の分霊を招き迎えること)したすべての社格に対し、本社と同じ「正一位」の神階を書き添えて授与してよいという特権が朝廷から正式に下されたのです。
さらにこの普及に拍車をかけたのが、室町時代から江戸時代にかけて神道界の権力を掌握した「吉田神道(よしだしんとう)」の存在でした。吉田家は朝廷から全国の神社に神階や社号を授与する権限(神名認可権)を認められており、「宗源宣旨(そうげんせんじ)」と呼ばれる免許状を発行する事業を大々的に展開しました。
江戸の町衆や大名、農村の村役人たちがお金を納めて申請すれば、吉田家から正式に「正一位稲荷大明神」の宣旨が交付されたのです。当時、江戸の町で「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と川柳に詠まれるほど稲荷社が乱立した背景には、この合理的かつ大規模なブランディングと宣旨発行のシステムが機能していたという歴史的事実があります。