北海道旧土人保護法がなぜ制定されたのかを理解するには、明治維新直後から始まった開拓使とアイヌの歴史を遡る必要があります。1869年(明治2年)、明治政府は蝦夷地を「北海道」と改称し、開拓使を設置しました。ロシア帝国への警戒と領土確定、そして近代国家としての版図拡大を狙う政府にとって、北海道の開拓は国家の至上命題でした。しかし、その開拓劇は、先住者であるアイヌ民族の生活基盤を徹底的に破壊するプロセスそのものでした。
政府は1870年代以降、伝統的な生活の糧であったサケ漁やシカ狩りを厳しく禁止し、土地を「無主地」として国有地に編入しました。何世代にもわたり山野や河川と共生してきたアイヌの人々は、ある日突然、自らの故郷で密漁・密猟者として扱われる事態に陥ったのです。生活の手段を根こそぎ奪われた結果、各地のアイヌコタン(集落)は急速に貧困化し、伝染病の流行や飢餓が襲いました。
政府の法令データベースや当時の帝国議会記録を紐解くと、法案提出の口実として「アイヌ民族は帝国臣民の一部であるが、優勝劣敗の自然淘汰により人口が激減し、極めて困窮している」「一視同仁の仁政に基づき救済する」という論理が展開されています。つまり、政府自らが伝統的生活を破壊して困窮に追いやった事実を覆い隠し、「劣等な境遇にある哀れな民を慈悲深く助けてやる」というパターナリズム(温情主義)の構図を作り上げたのです。これこそが、北海道旧土人保護法の制定理由に潜む最大の欺瞞でした。