強靭な肉体と沈着冷静な知略を兼ね備えていた坂上田村麻呂ですが、その出自と私生活にも興味深い歴史的事実が数多く存在します。
渡来系氏族「東漢氏」の血を引く軍事貴族の家系
坂上氏は、応神天皇の時代に大陸から渡来したとされる阿知使主(あちのおみ)を祖とする東漢氏(やまとのあやうじ)の流れを汲む渡来人系譜の氏族です。父・坂上苅田麻呂も優れた武人であり、奈良時代末期の政変(藤原種継暗殺事件など)を鎮圧して朝廷内での信頼を勝ち取りました。田村麻呂の並外れた弓馬の技術や軍略は、渡来系技術集団としての高い知見と家柄の武芸の賜物でした。
京都「清水寺」創建に秘められた真相
日本有数の観光名所である京都の清水寺(きよみずでら)は、坂上田村麻呂が創建に関わった寺院として知られています。伝承によると、宝亀9年(778年)、田村麻呂が妻・高子の安産祈願のために音羽山で鹿狩りをしていたところ、草庵を結んでいた修行僧・延鎮(えんちん)に出会いました。延鎮から無益な殺生を戒められた田村麻呂は深く感銘を受け、自らの屋敷を仏殿として寄進し、十一面千手観音を祀ったのが清水寺の始まりとされています。武勇だけでなく、深い信仰心と誠実な人柄を物語るエピソードです。
死後も都を守護し続ける「将軍塚」の伝説
弘仁2年(811年)、54歳で病没した田村麻呂の遺体は、桓武天皇の後を継いだ嵯峨天皇の命により、甲冑を着せられ、弓矢と太刀を帯びた立った姿で京都の東に向かって埋葬されたと伝わります。京都東山の「将軍塚」や京都市山科区の「西野山古墓」がその終焉の地として有力視されており、「国家に異変があるときは将軍塚が鳴動して都に知らせる」という伝説が中世を通じて信じられました。