明暦の大火を経て浅草の北へと移転した新吉原遊廓は、周囲をお歯黒どぶと呼ばれる深い堀で囲まれた完全な隔離空間だった。外界から隔絶されたこの歓楽の檻で起きた最も有名な凶行が、下野国佐野の豪農・絹商人と伝えられる佐野次郎左衛門による無差別殺傷事件である。
地方の素朴な富豪であった男が、美貌の最高位遊女・八ツ橋に巨額の金を注ぎ込み、やがて冷酷な「愛想尽かし」を受けたことで逆上。名刀「籠釣瓶」を抜き放ち、八ツ橋をはじめ見世の人間を次々と手にかける――。講談や巷説で「吉原百人斬り」として誇張されたこの事件だが、実際の史実でも複数人が惨殺された凶悪犯罪であった。隔離された遊郭という特異な環境が、地方の富裕層から徹底的に搾取するシステムとして機能していた事実が、惨劇の背景に横たわっている。