九龍城砦が「法律の及ばない魔窟」と呼ばれるに至った根本的な要因は、19世紀末の植民地協定に端を発する極めて複雑な外交上のねじれにあります。
1898年、イギリスと清国の間で締結された「展拓香港界址専条」により、イギリスは新界地区を99年間の期限付きで租借することになりました。しかし、当時すでに清国の軍事拠点であった九龍城砦内部に限っては、清国の管轄権を認める例外規定が盛り込まれました。翌1899年にイギリス軍が城砦を実効支配しようと試みたものの、清国側の猛烈な抗議によって立ち往生し、明確な統治権の所在が曖昧なまま放置される事態に陥ったのです。
第二次世界大戦後、中国大陸の国共内戦や政変から逃れてきた大量の難民がこの城砦跡地に流入しました。香港政庁が取り締まろうとすれば中国政府が「主権侵害」と反発し、中国政府も実質的な統治権を行使できず、イギリス側も外交摩擦を恐れて手を出せない状態が固定化しました。この状況は「イギリスは管理せず、中国は管理できず、香港政庁は管轄できない」という意味で「三不管(サンブーグアン)」と呼ばれ、公権力が完全に排除された無国籍空間のような特異な治外法権エリアが生み出される決定打となったのです。