1992年4月25日早朝、泥酔状態で保護された尾崎は、最初に搬送された白鬚橋病院から妻とともに自宅マンションへと帰宅した。しかし、午前中のうちに容態が急変し、呼吸が乱れて体温が急上昇する。午後、再度の緊急搬送先となった日本医科大学付属病院の救急救命センターに担ぎ込まれたときには、すでに心肺停止に近い重篤な状態だった。懸命な蘇生措置も虚しく、午後0時6分、死亡が確認された。
事態を重く見た警視庁は、死因の究明と事件性の有無を判断するため直ちに捜査を開始した。千住警察署による現場検証、関係者への聴取、そして東京都監察医務院での徹底した解剖捜査が実施された。結果として警視庁は「事件性なし」と判断し、他殺の可能性を公式に退けている。
搬送時の医師の判断や自宅へ連れ帰った経緯について、当時のメディアは激しいバッシングと検証記事を繰り返した。もし最初の病院で即座に入院処置が取られていれば助かったのではないかという後悔と怒りが、社会全体に渦巻いていたからだ。医療現場の逼迫とプライベートな混乱が重なり合った末の悲劇だった。