坂本龍馬、大久保利通、木戸孝允など、幕末から明治初期に活躍した志士たちの多くは、鮮明な古写真として現代にその姿を伝えています。それにもかかわらず、明治維新十傑の筆頭格であり、新政府の陸軍大将まで務めた西郷隆盛の写真だけが、歴史の表舞台に一枚も残されていません。
西郷が極端に写真撮影を忌避した背景には、いくつかの説が存在します。当時まだ根強く残っていた「写真を撮られると魂を抜かれる、寿命が縮まる」という迷信を警戒したという説や、暗殺やテロリズムが横行していた激動の時代において、国家の最高首脳である自らの顔姿が市中に割れることを防ぐための軍事・治安上の防諜(セキュリティ)策であったという見解が有力です。また、自らを飾ることを嫌い、権威を誇示することを極端に退けた西郷のストイックな武士道精神が影響していたとも伝えられています。
では、私たちが教科書で目にするあの肖像画はどのように誕生したのでしょうか。そこに深く関わったのが、明治政府のお雇い外国人であったイタリア人版画家、エドアルド・キヨッソーネです。
1877(明治10)年の西南戦争で西郷が自刃した後、政府は国民的英雄としての西郷を顕彰するため、公式な肖像画の制作をキヨッソーネに依頼しました。しかし、参照すべき本人の写真がどこにもありません。そこでキヨッソーネが取った驚くべき手法が、血縁者の顔を組み合わせる「モンタージュ技法」でした。
キヨッソーネは、西郷の顔立ちに極めて似ていると証言された実弟の西郷従道から目元を中心とする顔の上半分を、そして従弟である大山巌から鼻や口元、顎のラインを中心とする顔の下半分を取材・スケッチし、それらを緻密に融合させて一枚の肖像画を描き上げました。これが、現在あらゆる「西郷どん似顔絵」や歴史イラストの基礎となっている原画の真実です。
この肖像画には、あまりにも有名な後日談が遺されています。1898(明治31)年、東京・上野恩賜公園に完成した西郷隆盛像の除幕式に出席した西郷の妻・糸子(イト)は、銅像の姿を見るなり周囲に対して「宿父(うちのひと)はこげんなお人じゃなかった」と薩摩弁で嘆いたと記録されています。身近で生活を共にした肉親から見れば、官僚たちが作り上げた「合成された英雄像」は、本物の西郷隆盛とはかけ離れた異質な姿に映ったのです。