学校教育の歴史教科書では、戊辰戦争は「旧弊な幕府勢力を打ち倒し、近代国家への道を拓いた内戦」としてシンプルに記述されます。しかし、現場で起きた略奪、民間人への加害、敗者に対する過酷な報復措置といった「戦場の暗部」は、勝者側の編纂した正史の陰に覆い隠されてきました。
とりわけ、会津藩主・松平容保に対する処遇は、会津側の怨嗟の根源となりました。京都守護職として孝明天皇から絶大な信任を受け、御宸翰(ごしんかん:天皇直筆の書簡)と御製を賜っていた容保は、朝廷への忠誠を尽くしていたにもかかわらず、政変によって一転して「朝敵・逆賊」の汚名を着せられました。容保は生涯この御宸翰を竹筒に入れて肌身離さず身につけていたと伝えられ、勝者の都合で「逆賊」に仕立て上げられた無念さを象徴しています。
また、少年兵部隊である白虎隊の自刃理由についても、一般には「飯盛山から城の炎上を見て落城と誤認したため」と悲劇的に語られますが、唯一の生存者である飯沼貞吉の手記によれば、城の炎上自体は認識しつつも「敵に捕らわれて生き恥を晒すより、武士として潔く主君のために命を捧げる」という極限状態での集団的決断であったことが判明しています。