二人の接点が生まれたのは、入籍のわずか数カ月前、1983年の春頃でした。細木数子が自身の著書の出版や活動の権威付けを目的として、安岡が主宰する「郷学研修所・三島中洲記念館」などの関係筋を通じて接触を図ったことが直接の契機とされています。
当時の細木は持ち前の巧みな話術と行動力で、妻を亡くして孤独感を深めていた安岡の身の回りの世話を急激に引き受け始めました。食事の世話や健康管理を名目に安岡邸へ頻繁に出入りし、やがて古参の弟子や看護スタッフを遠ざけ、安岡の生活圏を実質的に掌握していった経緯が関係者の証言で明らかになっています。
当時を知る政界関係者は、「安岡先生の威光を利用したい人物は数多くいたが、弱り目に付け込んで私生活ごと囲い込んだのは彼女だけだった」と述懐しています。細木にとって安岡という存在は、自らが創始しようとしていた「六星占術」に絶対的な格式と正統性を付与するための最大の後ろ盾であったと分析されています。