グラスを傾ける客たちの姿。酔いに任せて吐き出される愚痴、自慢話、そして不意に見せる寂しげな背中。スナック「論吐奈唖」は、人間ドラマが交錯する小さな劇場だった。
川島はカウンターの中で静かに耳を傾け、人々の表情を観察した。酒に呑まれる者、酒に救われる者、人生の道に迷う者。そこには、教科書や綺麗事の小説には決して書かれない「生身の人間」の姿があった。
「人の可笑しみと切なさを、絵に閉じ込めることはできないだろうか」
元漁師のゴツゴツとした手で、川島はペンを持ち始めた。独学で紙に線を引く。片眼のハンディキャップを補うように、彼は観察眼と記憶力を研ぎ澄ませた。昼夜の逆転した生活の合間を縫って、原稿用紙に向かう密かな情熱が燃え上がっていたのである。