さて、亡くなったのは自害ということが分かりましたが、どのような状況だったのでしょうか。
本能寺の変から自害するまでの残り12日間について、超解説します。
本能寺の変を起こす
本能寺の変とは、明智光秀が諸反を起こして織田信長に襲撃を起こした事件です。
1582年6月21日早朝、明智光秀は1万の軍勢を持ち、織田信長の寝込みを襲いました。
この時織田信長は手勢100程だった為、あっというまに包囲されたのを語り、寺に火を放ち自害しました。
明智光秀は織田信長の家臣として仕えていたので、「主殺しの逆臣」との汚名も持っています。
山崎の戦いで敗北
織田信長の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、織田信長の仇討ちを果たす為、1582年7月2日、山崎の戦いを起こしました。
羽柴秀吉・その他家臣による軍と、明智光秀の軍との間の戦いでしたが、この合戦は敗北してしまいました。
敗北の大きな原因は戦力の差でした。
羽柴秀吉の軍が約4万に対し、明智光秀の軍は約1.5万だったとか。
その為、明智光秀にとってはこの山崎の戦が最期の戦いとなりました。
落ち武者狩りに遭い亡くなる
明智光秀の最期は、道中で百姓による落ち武者狩りに遭って重傷を負ったことが知られています。
山崎の戦いで敗北した明智光秀は、勝竜城になんとか逃げ込みましたが、まだまだ安全が確保されない為、そこから自らの城である坂本城を目指しました。
しかし、坂本城にはたどり着くことは出来ず、道中で百姓による落ち武者狩りに遭ってしまいました。
明智光秀は竹槍で腰のあたりを突き刺されて重傷を負い、もう逃げられないと判断して自害しました。