大谷徹は野球チームのコーチ・監督をしていた | かっこいい有名人研究所
2026年5月、日本人最速で通算100号ホームランを達成した大谷翔平選手。
まだまだメジャーリーグでの活躍は止まりません。
そんな大谷翔平選手の父親・大谷徹さんも学生時代から野球部で活躍していたことはご存じでしたか?
今回は、大谷翔平選手の父親・大谷徹さんについて詳しく見ていきたいと思います。
大谷徹のプロフィール
- 名前:大谷徹(おおたにとおる)
- 生年月日:1962年
- 出身地:岩手県北上市和賀町
- 身長:182センチ
- 学歴:岩手県立黒沢尻工業高等学校
- 投球/打席:右投げ・左打ち
野球スタイルは、大谷翔平選手と同じ右投げ・左打ちのようです。
野球人生まとめ
世界で活躍する大谷翔平選手の父親・大谷徹さんの野球人生はどのようなものだったのでしょうか?
大谷翔平選手の野球の才能は、父親ゆずりなのかもしれません。
中学時代は陸上部と野球部で活躍
五厘の坊主頭にするのがようで、中学入学後は陸上部に所属していました。
すぐに野球部に入部しなかった理由が、思春期の男の子らしくかわいらしいですよね。
陸上部では、100メートル走、走高跳、砲丸投げの3競技にて県大会で6位に入賞する程の実力がありました。
しかし、個人競技であるが故に明確に個人に優劣がつけられることが嫌で、中2の時に野球部に転部しました。
野球部では、大谷翔平選手の父親らしくエースで4番。
まさに二刀流で活躍をされていたのです。
県内の高校の野球強豪校の監督からも、注目される存在だったそうです。
高校時代に投手から外野手にチェンジ
当時の監督から直接スカウトを受け、県内屈指の強豪校だった「岩手県立黒沢尻工業高等学校」に入学。
そこには、エースで4番・腕に覚えのある選手ばかりが集まっていました。
投手としては芽が出なかったものの試行錯誤の末、外野手としてレギュラーの座を獲得しました。
挫けずに努力をかさね、見事に自分のポジションを得たのです。
流石ですよね。
また、中学時代に鍛えた俊足を生かし一番バッターとしても活躍されました。
大谷翔平選手の俊足は父親譲りだったようです。
内定を辞退するほどの燃え尽き症候群
ひたむきに野球に打ち込んだ高校生活でしたが、残念ながら甲子園に出場する夢は叶いませんでした。
高校生活最後である3年夏の県大会で初戦敗退してしまいます。
全情熱を傾けた故に、念願の甲子園出場を果たせなかった虚しさが大谷徹さんを襲いました。
何もやる気にならず、内定していた千葉県の製鉄会社への就職を断ったほどだそうです。
まさに燃え尽き症候群です。
燃え尽き症候群(バーンアウト症候群)とは、それまでモチベーションを高く保っていた人が、突然やる気を失ってしまう症状です。努力に見合った結果が出なかった場合や、逆に大きな目標を達成したことで打ち込めるものがなくなり、何もやる気が起きなくなってしまう場合もあります。
引用:https://www.kase-cocoro.com/
あの東京五輪金メダリストの水谷準選手も、燃え尽き症候群に苦しんだ過去があるそうです。
コロナ禍では、燃え尽き症候群が社会問題になっています。
数か月、無気力な状態が続いた大谷徹さんでしたが、野球への情熱が再燃しました。
野球部OBのツテで三菱重工横浜野球部の選考を受け、見事合格。
大谷徹さんの野球人生は、社会人野球へと続くことになりました。
岩手県を離れ、三菱重高横浜に入社
三菱重工横浜野球部でプレーすることになった大谷徹さんは、神奈川県に移り住みます。
当時、三菱重工横浜野球部は都市対抗野球の代表の座を争うほどのレベルだったようです。
同野球部では、一年目に肩を故障するという不運に見舞われてしまいます。
しかし、トレーニングを重ね、見事に復帰されました。
1,2番打者の外野手として主力に近い位置でプレーされるほどだったそうです。
不運をも跳ね返す強い意志の持ち主であることが伝わってきますよね。
戦力外通告により退部
やがて外野手でレギュラーの座を掴み、順調な選手生活を送っているかに見えました。
しかし、6年目を迎えた24歳の時に、当時の監督臼井喜久男氏から思いがけぬ言葉を告げられます。
”来季は戦力としてつかわない” 事実上の戦力外通告です。
大谷徹さんは、その通告を受け入れ退部を決意します。
こうして、大谷徹さんの現役としての野球人生は終わりを迎えました。
コーチ・監督として選手を育てる立場に
大谷徹さんは、大谷翔平選手が地元の野球チームに入ってから7年間コーチ・監督として熱心に指導をしました。
そこには、大谷翔平選手を全力でサポートしたいという父としての強い思いがあったそうです。
当時二交代制の仕事をされており、夜勤明けも寝る間を惜しんで練習に参加したそうです。
又、他の選手への配慮も忘れず、息子だけを特別扱いすることは決してしませんでした。
周りへの気遣いを忘れない人格者であることがわかります。
2014年、大谷徹さんは有志らとともに、野球チーム「金ケ崎リトルシニア」を立ち上げます。
「ジュニアに目標とされる選手になりたい」という大谷翔平選手の思いを実現するためでした。
2026年現在も、同チームの監督として熱心に指導にあたられています。