道頓堀グリコ看板の真相!ランニングマンモデルの謎と歴代変遷
大阪・ミナミの象徴として、いまや世界中の旅行者から「Osaka Running Man」の愛称で親しまれている道頓堀グリコサイン。両手を高々と掲げてゴールインするあのランナーの姿を一目見ようと、戎橋の上には連日多くの観光客が集まり、同じポーズで記念撮影を楽しむ光景が定着しています。
しかし、なぜあのランナーは両手を掲げているのか、モデルとなった実在の人物は誰なのか、そして1935年の初点灯からどのような変遷を辿ってきたのか、その全貌を正確に知る人は多くありません。本稿では、江崎グリコの公式記録や歴史資料、現地取材をもとに、大阪グリコ看板の歴史とモデルの真相、さらには混雑を回避して最高の1枚を撮るための撮影スポットまで徹底的に解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】- 要点1:ランニングマンのモデルは1人ではなく、金栗四三氏をはじめとする複数の実在アスリートの走破フォームを徹底研究して生み出された。
- 要点2:1935年の初代から現在の6代目LED看板まで90年以上の歴史を誇り、時代の最先端技術と大阪の復興・発展を映し出してきた。
- 要点3:点灯時間は日没30分後から22時まで。戎橋の混雑を避けるなら「とんぼりリバーウォーク」や「遊覧船」からのアングルが狙い目。
【真相検証】グリコランニングマンモデルは誰?実在したアスリートたちの系譜
世界中の人々を惹きつける「走る人」のトレードマーク。ネット上では「特定の外国人選手が単独モデル」「創業者の親族」といった様々な噂が飛び交っていますが、江崎グリコの公式社史によると、特定の1人だけをそのまま描いたものではありません。複数の実在する名ランナーたちの躍動感あふれる姿を徹底的にリサーチし、融合させた結果として誕生しました。
大正10年(1921年)、創業者である江崎利一氏は、牡蠣の煮汁に含まれるグリコーゲンを活用した栄養菓子「グリコ」の開発にあたり、商品の象徴となる商標を模索していました。ある日、利一氏が神社(安久里八幡宮)の境内で遊ぶ子どもたちを観察していたところ、かけっこをして両手を高く掲げて満面の笑みでゴールインする子どもの姿を目撃します。その姿こそが「子どもの健康と元気を象徴する理想のシンボル」であると確信したことが、すべての始まりでした。
その後、より躍動感と力強さを持ったフォルムに仕上げるため、当時のスポーツ界で活躍していた国内外のトップランナーたちのフォームが丹念に研究されました。
- 金栗四三氏:日本人初のオリンピック選手であり、「日本のマラソン界の父」と称される名ランナー。
- パボ・ヌルミ氏:1920年代のオリンピックで通算9個の金メダルを獲得した「フライング・フィン(空飛ぶフィンランド人)」。
- フォルチュナト・カタロン氏:極東選手権競技大会の短距離走で活躍したフィリピンの短距離王者。
- 谷三三五氏:1924年パリ五輪の短距離走代表選手。
デザイナー陣はこれらの名アスリートたちの胸の張り方、腕の角度、脚の筋肉の躍動感をスケッチし、試行錯誤を重ねました。初期の図案では「顔が怖くて子どもが泣き出す」といった意見も寄せられたため、時代に合わせて表情や体型に微調整が加えられ、親しみやすく力強い現在のランニングマンの原型が完成したのです。
【歴史と技術革新】初代から6代目LEDリニューアルまでの歴代グリコ看板変遷
道頓堀にグリコの巨大看板が初めて登場したのは、昭和10年(1935年)のことでした。初代看板は高さ33メートルという当時としては圧倒的な高さを誇り、毎分19回色が変わるネオン塔として道頓堀の夜空を彩りました。以来、戦争による金属供出や老朽化、時代の技術革新とともに姿を変え、現在の看板は6代目にあたります。
歴代看板の歴史は、そのまま大阪の近代都市史とテクノロジーの進化の歴史でもあります。各世代の特徴とスペックの推移を一覧表で振り返ります。
2014年秋に行われた6代目へのLEDリニューアル工事中には、完成までの期間限定として女優・綾瀬はるか氏がグリコポーズをとる工事幕が掲出され、大きな話題を呼びました。現在の6代目は、背景画面が次々と変化し、富士山や世界の名所をランナーが駆け巡るダイナミックなストーリー仕立ての映像が楽しめるようになっています。