雅子様の若い頃 | かっこいい有名人研究所
時代が平成から令和へと切り替わり、今上天皇と今上皇后が即位されました。
新しい時代にふさわしい、凛としたお姿の徳仁さまと美しい雅子さま。
今回は皇室に嫁がれて人生が180度変わった、雅子さまについて迫っていきたいと思います。
プロフィール
- 旧姓:小和田雅子
- 生年月日:1963年12月9日
- 出身地:東京都世田谷区
- 日本の第126代天皇徳仁の皇后
- お印:ハマナス
美知子上皇后様に引き続き、民間から皇室に嫁がれた雅子さま。
しかし、ひと口に「民間」と言われましても、その御家柄は素晴らしいものでした。
美しすぎる若い頃のお姿
現在でも品格に満ちたお美しい雅子さまですが、若い頃はその聡明さと美しさが更に際立っていました。
頭がよくてスポーツ万能、さらに努力家で活動的。
容姿以外にも完璧な雅子さまのお姿を追ってみました。
上流階級の子供として誕生
雅子さまは1963年12月9日、父・小和田恆(ひさし)さんと母・小和田優美子さん夫妻の長女としてお生まれになりました。
父・小和田恆さんは外交官と東京大学の講師を兼ねており、母・小和田優美子さんはチッソ会長の長女でエールフランスでは秘書の経験もある才女。
外務省職員から外交官、外務大臣秘書官、日本大使館公使などに就任していた父・小和田恆さんの関係で、雅子さまも幼少のころからソ連(現ロシア)、スイス、アメリカなどに移住をされています。
また、雅子さまには3歳年下の双子の姉妹・小和田礼子さんと小和田節子さんがおられ、しっかり者の優しいお姉さんでした。
雅子さまと双子の姉妹である、礼子さんと節子さん。
幼いころから、ぱっちり二重でとても可愛らしいお嬢様です。
雙葉小学校に入学
日本に帰国された雅子さまは、小学校3年生のときに田園調布雙葉小学校に編入されます。
この学校は歴史もあり、良家の子が多く通っている名門校。
偏差値も高く、毎年東大合格者も多数いる優秀な学校です。
雅子さまは1年間塾に通われ、この難関小学校の合格を見事に勝ち取られました。
幼い頃から優秀で、一生懸命勉強される頑張りやさんだったのでしょうね。
超優秀だった高校・大学時代
高校2年生の時に、父・小和田恆さんの仕事の関係で再び渡米された雅子さま。
ボストンにあるベルモント・ハイスクールへ編入された雅子さまは、そこでも持ち前の努力とガッツで言葉の壁も越えて最優等学生に選ばれています。
さらにアメリカ政府が国の上位わずか5%の学生にだけ与える「ナショナル・オーナー・ソサイアティー」を受賞。
海外生活が長かった雅子さまは語学力も素晴らしかったようで、英語以外にもドイツ語フランス語、ロシア語スペイン語なども話せるそうです。
そしてそのまま世界的な難関大学として有名なハーバード大学経済学部へと進学されました。
アメリカの大学は入学よりも卒業が難しいと言われるなか、雅子さまは成績優秀な一握りの学生だけに与えられる「マグナ・クム・ラウデ優等賞」を受賞されています。
この賞は、仲間からも「ハードワーカー」と呼ばれるほど学業に熱心だった雅子さまにふさわしい最高の名誉なのです。
スーパールーキーとして外務省に入省
日本に帰国された雅子さまは、そのまま東京大学法学部に外部学士入学をされました。
この頃から父親と同じ「外交官」になる夢を抱いていらっしゃった雅子さまは、当時の友人たちに「世界的な視野で日本のために尽くしたい」と語られていたそうです。
そして東京大学在学中に倍率40倍の外交官試験に合格。
国家公務員試験のなかでも飛び抜けて難関な外交官試験を一回で合格された雅子さまが、どれだけ優秀でおられたか分かりますよね。
さらに、この当時は外務省の中で初の女性キャリア官僚だった雅子さま。
お妃様候補で有名になる前から、すでに永田町界隈では有名人だったのです。
写真週刊誌では、「外交官に『清原級』ルーキー ハーバード出身小和田雅子さんの完全無欠」という記事が書かれ、雅子さまのインタビュー形式での取材になりました。
ちなみに『清原級』とは1986年のプロ野球界を騒然とさせたスーパールーキー清原和博さんのことで、当時の日本では最高の褒め言葉でした。
徳仁親王とご結婚
ようやく掴んだ大きな夢を手に、やりがいのある仕事が楽しくて一生懸命打ち込んでおられた雅子さまの日常が一変します。
輝かしいキャリアを努力で勝ち取り、類いまれな美貌まで与えらた雅子さまに突然降って沸いたのが「皇太子殿下のお妃候補は外交官小和田雅子さんに!」という話です。
1986年10月8日、スペインから来日していたエレナ王女を歓迎する皇室主催のお茶会が催されました。
そのときに招待客の1人として招かれていたのが雅子さまだったのです。
軽い挨拶程度に顔を合わせたお二人でしたが、徳仁さまの中で「一目惚れ」の炎が燃え始めた瞬間でした。
研修先のイギリスにまで報道陣が追いかけてきて、雅子さまに「皇太子殿下とご結婚なさるのでは?」と出勤途中の雅子さまに問い詰めます。
しかし雅子さまは「私には一切関係ございません」とけんもほろろにお答えになる始末。
徳仁さまの熱い想いはなかなか雅子さまに届きません。
そして徳仁さまは研修先のイギリスから帰国した雅子さまに、6年越しの想いを打ち明け結婚の申し込みをされました。
当初雅子さまは「お断りする場合も含めて、きちんとご返事します」と答えられています。
結婚して「皇室」という特別な世界に飛び込むか、念願だった外交官へのキャリアを突き進むか、さぞかし悩まれたにちがいありません。
一旦は「自信がございません」という理由でプロポーズをお断りになった雅子さま。
しかし、徳仁さまの熱い想いと優しいお人柄に、ようやく雅子さまは結婚を承諾されました。
初めての出会いから6年3ヶ月。
徳仁さまは雅子さまへの一途な想いを貫ぬかれたのです。
外交官というキャリアをお捨てになり、皇太子妃になるには相当な覚悟が必要だったと思います。
徳仁さまはそんな雅子さまに「皇室に入るには、色々な不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力をかけてお守りしますから」と言われたそうです。
心優しい、穏やかな徳仁さまが一生分の想いを込めて語られた愛の誓いが、雅子さまの心に響いたのでしょう。
婚約記者会見の雅子さま。
レモンイエローのスーツが、美貌に映えます。
愛子さまをご出産
婚約会見から8年余り過ぎた2001年12月1日、午後2時43分。
大きな産声が病院中に響きわたり、徳仁さまと雅子さまの間に待望だったお子様が生まれました。
「敬宮愛子さま」のご誕生です。
生まれたての愛子さまを愛おしそうに抱かれた雅子さまは、すでに優しく強い母の笑顔に溢れていたそうです。
のちの記者会見で「生まれてきてくれてありがとう」と涙ぐみながら語られた雅子さま。
無事のご出産まで「世間からの重圧」に苦しんでいた様子が見えるお言葉でした。
徳仁さまはお世継ぎを期待する世間に対し「コウノトリのご機嫌に任せて」と言われておりました。
風邪をひいて公務を休まれたり、かかとの低い靴を履くたびに「ご懐妊では?」と騒がれる雅子さま。
「お世継ぎが生まれるかしら…」と周囲に不安をもらしていた雅子さまのお姿を見て、徳仁さまが言われました。
「コウノトリは静かな環境を好むようです」
周りの干渉に「驚くほど率直に反発された」と関係者が語っています。
徳仁さまは最初の約束通り、重圧から苦しんでいる雅子さまを全力をかけてお守りしていたのです。
雅子さまと愛子さまが退院された日の東京・麹町から中継の様子。
全ての店の入り口には「新宮様のご誕生をお慶び申し上げます」の張り紙が貼られ、沿道には多くの国民が祝福のために集まりました。
日本中が愛子さまのご誕生に大喜びしていたのです。