日本語の歴史において、乳房を指す言葉は時代とともに移り変わってきた。古代から中世にかけての文献には「ちち(乳)」が広く登場するが、これが口語のなかでどのように崩れ、あるいは再構築されて現在の形になったのか。語源学の分野では、主に二つの有力な仮説が支持を集めている。
ひとつは「お・いっぱい(御・一杯)」が促音化・変化したという説だ。乳児が母乳を十分に飲み干す様子、あるいは「たくさん飲んでほしい」と願う母親の慈しみが込められた表現が定着したという見解である。もうひとつは、乳児が発する吸啜音や唇音「パパ」「パイパイ」に丁寧の接頭辞「お」が付与されたとする幼児語発祥説だ。
日本語学の知見によれば、乳幼児が最初に発音しやすい音は両唇音(マ行、バ行、パ行)に集中する。国立国語研究所に蓄積された方言記録や音声コーパスを紐解いても、東北から九州に至るまで、乳房や母乳を指す言葉には驚くほど多様なオノマトペ的変形が見られる。単なる生理現象の命名ではなく、養育者と子の間で交わされた愛情の音声的結晶こそが、この語の正体なのだ。