戦国時代では男性が中心に語り継がれることが多いですが、女性も魅力的な方が揃っています。
やはり、息子達に比べると情報が少ない部分はありますが、こちらでは織田信長の娘について見ていきましょう。
徳姫
徳姫は織田信長の長女であり、母は側室・生駒吉乃です。
織田信長と徳川家康の同盟の為、徳川家康の嫡男・松平信康と婚約します。
松平信康との間に2女を授かりましたが、夫の松平信康は父・織田信長に叛逆の疑いで死罪を言い渡され切腹しています。
本能寺の変で織田信長が亡くなった後は、兄・織田信雄の元で居住したのち実家の生駒氏本領の尾張国に移りました。
最終的には京都で余生を過ごしたと言われています。
相応院
相応院(そうおういん)は織田信長の次女であり、母は側室・養観院です。
蒲生氏郷の正室となりました。
蒲生氏郷が亡くなった際に豊臣秀吉は相応院を側室にしようとしましたが、相応院は出家して蒲生氏郷との愛を貫いた人物なのです。
永姫
永姫は織田信長の三女であり母は不明です。
8歳の時に織田信長に認められた前田利家の嫡男・前田利長に嫁ぎます。
本能寺の変で織田信長の死去を聞いた夫・前田利長は永姫を尾張国荒子に避難させたという話が残っています。
夫・前田利長が亡くなると出家して金沢に移り住んだということです。
ひとりの男性に愛を注いだ人物だったのです。
報恩院
報恩院(ほうおんいん)とは織田信長の四女であり母は不明です。
丹羽長重の正室であり織田家と丹羽家の政略婚姻。
報恩院の前にも織田一族と丹羽家は婚姻関係があり報恩院の婚姻で二重の婚姻関係という強い絆をつくりました。
本能寺の変の後は豊臣秀吉の介助を受けて坂本城に移り、のちに夫・丹羽長重が徳川家康に仕え江戸に移り最期まで過ごしたそうです。
秀子
秀子は織田信長の六女であり、実父は明智光秀だと言われています。
織田信長の養女となった後に嫁いでいるとされています。
筒井定次の正室で筒井順定を産んだとされています。
於振
於振(おふり)は織田信長の七女であり母は側室・お鍋の方である。
水野忠胤正室であり後に佐治一成継室となります。
水野忠胤との間には一男二女を授かりました。
夫・水野忠胤は家臣の刃傷事件により切腹しています。
その後、水野家を離れ織田信包の家臣・佐治一成と再婚しました。
源光院
源光院(げんこういん)は織田信長の八女で母は不明です。
豊臣秀吉の介入で万里小路充房の継室となり一男四女を授かったと言われています。
三の丸殿
三の丸殿(さんのまるどの)とは母は側室・慈徳院です。
豊臣秀吉の側室となり地位的には4番目だったようです。
豊臣秀吉の死後は二条昭実の継室となっています。
鶴姫
鶴姫(つるひめ)とは織田信長の十女で、母は不明です。
中川秀政の正室で二人の間に子供はいませんでした。
月明院
月明院(げつみょういん)とは織田信長の十一女で母は不明です。
名前しか記述されておらず謎のベールに包まれた人物です。
慈眼院
慈眼院(じげんいん)とは織田信長の十二女で母は不明です。
織田家と北条家の間で話が進み、北条氏直との婚約者になりました。
しかし、本能寺の変により織田信長が亡くなった後に婚約話はなくなったということです
足利夫人
足利夫人(あしかがふじん)は、織田信長の娘とも側室だとも言われていて実情はよくわかっていません。
織田信長の死後は豊臣秀吉に守られていたのではないかと言われています。
のちに豊臣秀吉の命令で将軍・足利義昭に嫁いでいるようです。