小泉純一郎は、「小泉旋風」「小泉劇場」と言われる程政治に革命を起こした人物でした。
その風格は若い頃から変わらず、活発的だったようです。
幼少期は貧しかった
政治一家であった小泉家でしたが、小泉純一郎の幼い頃は貧しい状態にありました。
小泉純一郎が産まれた1942年は戦時中でした。
戦後、祖父と父が公職追放となった事により生活が貧しくなりました。
日本中貧しかった時代でしたが、他の家庭と同様、食卓には芋の煮っころがし等が並んだようです。
偏差値67の横須賀高校に入学
高校は神奈川県横須賀市にある『横須賀高校』に入学しました。
横須賀高校は1908年からある伝統的な進学校であり、偏差値が67ある難関校です。
優秀な人材を政治官界に多く輩出しています。
慶応義塾大学時代は麻雀とスキーに熱中
大学は慶應義塾大学に進みます。
高校卒業後、東京大学を目指し2年間の浪人生活を送っての慶応義塾大学への進学でした。
学生時代は麻雀とスキーに熱中しており、3年次に1年留年しています。
卒業後、イギリスのロンドンにある『ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン』に留学しました。
留学中はオペラ鑑賞に熱中していたようです。
留学中に単位取得をしていなかった為、『留年は詐称じゃないのか?』と憶測もされていたようです。
勉強よりも趣味に熱中した学生時代だったようですね。
学生時代はライオンヘアと言うよりはオールバックに近い髪型をしていたようで、容姿に印象的なイメージは特にありませんね。
第32回衆議院議員選挙に出馬
小泉純一郎は、1969年に27歳で第32回衆議院議員選挙に初出馬します。
同年に亡くなった父の後を継ぎ選挙に挑みましたが、わずか4000票差で落選してしまいました。
福田赳夫の秘書として下積み
衆議院議員選挙に落選後、小泉純一郎は福田赳夫のもとで議員秘書として勤めます。
毎朝5時半に起き、2時間かけて通勤していました。
午前中は福田の議員秘書として活動していましたが、それだけではなく、午後は横須賀に戻り自身の政治活動を行っていたのです。
この頃から政治に対する活発的な行動が見受けられます。
当時福田は、「彼は大物になったらとんでもない大物になる」と小泉純一郎の可能性を示唆していたようです。
小泉純一郎の行動を見ての発言だったかもしれませんね。
第33回衆議院議員選挙に出馬し、見事当選
小泉純一郎は1972年、30歳の時に2回目の出馬で見事衆議院議員選挙に当選します。
議員秘書時代にお世話になり、政治家としての手ほどきを受けた福田派に属し活動しました。
1988年、46歳で竹田改革内閣の厚生大臣として初入閣した後も郵政大臣や外務大臣等政治の中心としての活躍を見せました。
宮本佳代子と結婚
小泉純一郎は1978年、36歳の時にエスエス製薬元会長の孫である宮本佳代子と結婚します。
彼女との間に3人の子を儲けますが、僅か4年後の第3子懐妊中に離婚しました。
離婚の理由は小泉純一郎の実の姉が関係していると言われており、宮本佳代子さんが小泉家に馴染めなかったのではないかと考えられています。
若い頃の小泉純一郎の容姿はどの写真を見てもオールバックに近く、ライオンヘアと言うにはまだ少し早いでしょうか。
内閣総理大臣に就任
小泉純一郎は2001年、59歳の時に内閣総理大臣に就任します。
第87代、第88代、第89代と3期に渡って5年5ヵ月もの間内閣総理大臣を務めました。
これは、安倍晋三、佐藤栄作、吉田茂に継ぐ戦後第4位の在任期間となります。
衆議院議員選挙では、「自民党をぶっ壊す」や「私の政策を批判するものは全て抵抗勢力」と、派手な言動で熱弁しました。
この熱弁により、圧倒的な自民党優位で圧勝した「小泉旋風」という現象を起こしました。
小泉内閣発足時の支持率は戦後歴代1位とされており、
主に「郵政民営化」や「北朝鮮拉致被害者帰国」等の活動を行いました。
特に郵政民営化ではマスコミを利用した劇場型の政治を行い、「小泉劇場」として大きな話題を呼びました。
この小泉劇場という言葉は当時の流行語大賞にも選ばれた程でした。
内閣総理大臣を務めたこの頃からライオンヘアが象徴的になり、印象に残る容姿になっていますね。
やはり、国を担う内閣総理大臣には印象に残る象徴的な物が必要なのでしょう。
これぞ小泉純一郎という髪型です。