宮沢賢治の生涯は、絶えず病魔との背中合わせだった。盛岡高等農林学校時代に患った胸膜炎をはじめ、彼は20代半ばから慢性的な呼吸器疾患を抱えていた。当時の日本において結核は不治の病であり、過度な菜食主義や羅須地人協会での激しい肉体労働が、彼の免疫力をじわじわと削ぎ落としていったことは否めない。
最期の年の夏、東北地方は深刻な冷害に見舞われた。賢治は農民たちの相談に乗り、肥料の設計や指導のため、病身を押して奔走し続けた。9月中旬、急速に体力を失った賢治を襲ったのが高熱と呼吸困難だ。死因の直接的要因とされる急性肺炎を発症し、発作からわずか数日で息を引き取ることとなった。病床で父・政次郎に自作の出版を託し、題目をしたためた紙を握りしめたまま息を引き取った姿は、あまりにも劇的だった。