上野恩賜公園の南端に佇む西郷隆盛像(1898年/明治31年建立)を目にした多くの人が抱く最大の疑問が、「なぜ一国の陸軍大将が着流し(浴衣のような普段着)姿なのか」という点です。日本の近代彫刻において、国家的な指導者や軍功を挙げた武官は、正装の軍服やフロックコート姿で顕彰されるのが通例でした。実際、同時代に造られた大村益次郎像(靖国神社)や有栖川宮熾仁親王像などは、いずれも威厳に満ちた軍服姿で威風堂々と建てられています。
西郷像が素朴な着流し姿となった背景には、西郷隆盛 銅像 建立の経緯と歴史に横たわる複雑な政治力学が存在していました。西郷は1877年(明治10年)の西南戦争において、明治新政府軍と戦い敗れて自刃した人物です。国家に対する最大級の内乱を主導した首謀者、すなわち「逆賊」としての烙印を押されていました。
転機が訪れたのは、1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布に伴う大赦でした。西郷の名誉は回復され、正三位の位階が追贈されたことで、旧薩摩藩士や国民の間で顕彰銅像を建設する機運が一気に高まったのです。しかし、名誉が回復されたとはいえ、政府中枢には西南戦争で多くの血を流した旧長州藩閥や政府高官が健在でした。もしも西郷を「陸軍大将の軍服姿」で東京の中心に建立すれば、新政府軍に反旗を翻した軍事指導者としての記憶を刺激し、政治的対立を再燃させかねないという懸念が宮内省や関係者の間で強く働きました。
そこで考案されたのが、西郷のもう一つの象徴的側面であった「狩猟を愛し、庶民に寄り添った素朴な大男」という私的アプローチでした。日本刀(薩摩刀)を腰に差し、わらじを履き、愛犬を従えて山野を歩く姿(ウサギ狩りの出で立ち)に落とし込むことで、軍事的脅威や政治性を完全に脱色し、国民すべてから愛される「親しみやすい英雄」として上野の地に祀ることが可能となったのです。