宮沢賢治の死因は急性肺炎。妹は結核で他界。 | かっこいい有名人研究所

『雨ニモマケズ』や『注文の多い料理店』等、数々の素晴らしい作品を生み出した、宮沢賢治。

宮沢賢治が亡くなったのは、37歳というまだまだ若い年齢でした。

今回は、宮沢賢治の死因を追いかけてみたいと思います。

死因と原因のまとめ

1933年(昭和8年)、宮沢賢治は急性肺炎で亡くなりました。

急性肺炎は細菌やウイルスなどが肺に入ってしまうことで肺に炎症が起こる病気です。

原因:両側肺浸潤

亡くなる5年前の1928年、宮沢賢治は突然高熱で倒れてしまい、病院で「両側肺湿潤」と診断されました。

両側肺湿潤は、胸部レントゲンを撮ったときに、肺がもやもやして鮮明に見えなくなってしまっている状態です。

当時は両側肺湿潤と診断は、肺結核の初期の状態ということを意味していました。

療養生活と仕事に励む

両側肺湿潤と診断されてからは2年ほど療養生活を行っていましたが、体調が回復に向かい、東北砕石工場の技師として働き始めました。

宮沢賢治は製品の改造や注文、販売等であちこち忙しく働きまわっていましたが、再び高熱を出し倒れてしまいました。

そこから、地元に戻り療養生活を再開します。

療養生活中は詩の製作や過去の作品の推敲に取り組んでいました。

なんと医者にもかからず、薬はビール酵母と竹の皮を煎じたもののみで過ごしていたそうです。

死因:急性肺炎

地元の神社のお祭りが行われ、宮沢賢治も神輿や山車を見物し楽しんでいましたが、翌日呼吸が苦しくなり、医者から急性肺炎の兆しと診断されます。

すでに両側肺湿潤と診断されてから5年も経っており、長い療養期間で免疫力が大幅に低下していたことが考えられます。

お祭りの時に人が集まっていたので、何か細菌をもらってしまったのでしょうか。

結局、急性肺炎の兆しと診断された翌日に、宮沢賢治は亡くなりました。

死の間際の宮沢賢治

宮沢賢治は死ぬ間際まで優しかったと言われています。

死ぬ間際の宮沢賢治について深く迫ってみましょう。

農民の相談を受けていた

宮沢賢治は急性肺炎の兆しと診断された後も、丁寧に農民の相談に乗っていました。

神社の祭りを見物している宮沢賢治を見かけた農民が、祭りの翌朝に相談に来たようなのです。

実際に話をした後、呼吸が苦しくなり、医者から急性診断の兆しと診断されてしまいました。

しかし、その夜、別の農民が相談に来ましたが、宮沢賢治は着物を着替えて、1時間程丁寧に相談を乗ったんだそうです。

相当呼吸が苦しかったに違いないと思いますが、自分に頼ってきた人を無下にはできなかったのでしょう。

自分でお経を唱えて父に褒められていた

宮沢賢治は突然「南無妙法蓮華経」を唱え始め、驚いた家族に「国訳の妙法蓮華経を1千部つくってください」と語りました。

その時はとうとう血を吐いており、顔色も真っ青でした。

これまでは宮沢賢治は蓮華経、父親は浄土真宗を信仰していたので、対立していたことが多い二人でしたが、父親は信仰心の厚さに感激し、「おまえもなかなかえらい」と褒めました。

この時、「俺もとうとうおとうさんにほめられたものな」と弟に話し喜ばれたそうです。

そこから2時間後、宮沢賢治は家族に見守る中、呼吸が変わり潮が引くように息を引き取ったのでした。

池田 達也

池田 達也

マネー&キャリアエディター

Webメディアでの編集・執筆歴10年。読者の好奇心を刺激するストーリー作りを心がけています。