- 出身地:飛鳥(現代の奈良県)
- 職業:政治家
- 生年月日:574年2月7日
- 死亡年月日:622年4月8日(享年48歳)
- 別名:厩戸皇子(うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやどのおう)
- 用明天皇の第二皇子、母親は欽明天皇の皇女
- 推古天皇は彼の叔母にあたる 推古天皇の摂政となり、政治の実権を握る
また、いろいろな伝説もありますが、一番有名なのは「10人が一斉に発した言葉を聞き取ることができる」といったもの。
「日本書紀」では10人の言葉を、と書いてあるが、「聖徳太子伝暦」では太子が11歳の時に36人もの子供の話を聞き分けた、と書かれています。
文献によって、曖昧なところがありますね。
「人の話を理解して聞き分ける、豊かな耳」=「頭が良い」と解釈されて「豊聡耳(とよさとみみ)」という名前が付けられたそうです。
しかし、この名前にちなんで上記のようなエピソードが後付けされた、なんていう説もあるみたいです。
生まれは馬小屋
聖徳太子は生前、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていました。
なぜかといえば、生まれた場所が馬小屋だったからです。
ちなみに「聖徳太子」という名前は死後に付けられた名前です。
生前に素晴らしい業績を残した人に与えられる「諡(おくりな)」になります。
ある日の夜、太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は夢の中に観音菩薩が現れて「あなたのお腹に宿りたい」と言ったそうです。
その夢をみてすぐに、間人皇女は妊娠をします。
その夢からちょうど1年、間人皇女は馬小屋の前で産気付き、馬小屋の中で出産をします。
そのときに誕生したのが厩戸皇子であり、後の聖徳太子です。
なんか出産のエピソードがイエス・キリストに似てますね。
偉業を残した
歴史の教科書でもお馴染みのように、聖徳太子は黎明期の日本において、重要な政策をたくさん行った人です。
中でも有名な偉業は下記の3つです。
- 遣隋使の派遣
- 冠位十二階の制定
- 十七条憲法の制定
それぞれを簡単に説明をしていきます。
遣隋使の派遣
当時戦乱まったたなかの中国がついに「隋」に統一されました。
そこで聖徳太子は「隋」の国へ向かって日本から使いを派遣します。
それが「遣隋使」です。
日本を属国のように扱う、隋の皇帝に対し「日本は独立国である!」という主張を手紙にしたため、小野妹子に持たせました。
小野妹子もさぞ、大変な旅だったことでしょう。
今でいう中国大使館にいる外交官のようなものですね。
冠位十二階の制定
聖徳太子は天皇に使える役人たちを12段に分けて格付けをしました。
それが「冠位十二階」です。
今までの制度と違う最大のポイントは、聖徳太子がこの制度を定めるまでは、決まった「一族」丸ごとその身分を与えられていました。
しかし、この制度では一族ではなく1人1人「個人」にこの身分が与えられたのです。
つまり、家柄などは関係なく、実力のある人間はこの役職に就くことが可能になりました。
これによって、特定の豪族のところだけに権力が集中することが避けられました。
日本の社会で初めて「能力主義」を実現させたのが、聖徳太子の定めた「冠位十二階」だったのです。
下記のように、帽子の色でその位を表しています。
十七条憲法の制定
この憲法は名前こそ「憲法」となっていますが、これは「冠位十二階」で格付けされた役人たちが、守るべき道徳や思想のことを述べています。
この文章が「十七条憲法」です。
「和を以って貴しとなし」かの有名な文は、十七条憲法の1条です。
日本で最初にできた憲法であり、この「和」こそが日本の中心であり、日本人そのものである、ということを伝えています。
役人に限らず、平民にも伝えたい、日本人のアイデンティティですね。
自殺説が一番濃厚
斑鳩に隠居した聖徳太子は、その17年後に不可解な死を遂げます。
さらに、聖徳太子とその最愛の妃の命日が、たった1日した違いがないことから、暗殺されたのでは?という意見もあります。
「日本書紀」には聖徳太子の死を「2月5日斑鳩にて崩御」という一文しか記されていないのです。
しかし「聖徳太子伝暦」では、また違った見解があります。
『その日太子は妃を呼んで“私は今夜旅立とうと思う。一緒に来るが良い”と告げた。その後沐浴して身を清め、同じ寝床に入り、翌朝に2人の遺体が発見された』と書いてあります。
一説には聖徳太子が世を儚んで自死を選んだ、と言われています。
突然の朝廷との決別、不可解な謎の死、まだまだ私たちが知らない聖徳太子の姿がそこにありました。

