江戸時代初期、徳川幕府の行刑地は高輪大木戸近くの「芝高輪刑場」や「芝口札ノ辻刑場」に置かれていました。しかし、江戸の都市拡大に伴う人口増加と治安維持の強化により、それらの刑場は手狭となり、何より市街地に近すぎる点が問題視されるようになります。そこで慶安4年(1651年)、江戸の南の境界線にあたる大井村(現在の品川区南大井)に移転・開設されたのが鈴ヶ森刑場です。
「鈴ヶ森」という名称は、大井村に隣接する不入斗村(現在の大田区)に鎮座していた鈴森八幡宮(現在の磐井神社)の社叢に由来すると記録されています。元禄8年(1695年)に実施された検地資料によると、刑場の規模は間口40間(約72メートル)、奥行9間(約16メートル)に及び、第一京浜と東海道に挟まれた細長い敷地を有していました。
鈴ヶ森刑場がこの地に置かれた最大の理由は、「見せしめ効果(威嚇刑)」と「穢れの空間的隔離」にあります。東海道を上ってきた旅人が江戸府内に入る直前、処刑された罪人の遺体や晒し首を目にすることで、幕府の絶対的な権力を誇示し、犯罪を抑止する視覚的結界の役割を果たしていたのです。明治4年(1871年)に新政府によって廃止されるまでの約220年間、この場所は幕府の治安維持システムの最前線であり続けました。