無一郎が感情を失い、深刻な記憶喪失に陥っていた背景には、11歳のときに経験した凄惨な悲劇が存在します。
木樵(きこり)の息子として生まれた無一郎には、二卵性双生児の兄・時透有一郎(ゆういちろう)がいました。10歳の頃に母が風邪をこじらせて病死し、嵐の夜に薬草を採りに行った父も崖から転落して他界。幼い兄弟は二人だけで山中に取り残されることになります。
お人好しで「人のために生きる」ことを信じる無一郎に対し、兄の有一郎は「無一郎の無は『無能』の無」「情けは人のためにならず」と、弟に対して徹底して冷たく当たり続けました。産屋敷あまねが兄弟をスカウトしに訪れた際にも、有一郎は追い水を浴びせて追い返すほど頑なな態度を取りました。
しかし、11歳の夏、山小屋に侵入した1体の鬼によって運命は無残に引き裂かれます。弟を庇った有一郎は左腕を切り落とされ致命傷を負いました。兄を傷つけられた無一郎は極限の激怒に我を忘れ、手元にあった丸太や鍬、鉈を総動員して鬼を拘束。朝日が昇るまで鬼を日光に晒して消滅させました。
血まみれで小屋に戻った無一郎が耳にしたのは、虫の息となった有一郎が神仏に祈る声でした。「どうか弟だけは助けてやってくれ」「無一郎の無は『無限』の無なんだ」――兄の冷たい言葉は、すべて過酷な世界から弟を守るための不器用な愛情の裏返しだったのです。兄の死を見届けたショックと過度の精神的外傷(トラウマ)により、無一郎の脳は耐え難い苦痛を遮断する「解離性健忘」を起こし、すべての記憶を封印してしまいました。