土佐藩の絶対権力者であった前藩主・山内容堂と武市半平太の対立は、幕末の構造的矛盾を象徴しています。容堂は「酔えば勤皇、醒めれば佐幕」と自称したように、徳川宗家への深い恩義と朝廷への敬意の間で揺れ動く公武合体派の知性派大名でした。彼にとって、藩の主導権を握るべきはあくまで領主である山内家であり、身分の低い郷士階層が藩論を牛耳る事態は断じて容認できるものではありませんでした。
1863年(文久3年)の「八月十八日の政変」で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が京都から追放されると、時勢は一変します。容堂は即座に土佐藩内の主導権奪還に動き、武市をはじめとする土佐勤王党の幹部を次々と捕縛しました。
武市に対する取り調べは1年9か月に及びました。藩上層部は吉田東洋暗殺の首謀者が武市であることを自白させようと厳しく追及しましたが、武市は過酷な尋問に対しても一切口を割らず、沈黙と理路整然とした反論で耐え抜きました。その誇り高き抵抗こそが、容堂にとって最も恐ろしく、かつ許しがたい主従関係の逸脱と映ったのです。