なぜ、これほどまでに強固な伝説が日本中に広まったのでしょうか。その発端と経緯を検証すると、歴史の伝承における劇的な歪みとメディアによる増幅の構図が見えてきます。
しかみ像が公に広く知られるきっかけとなったのは、1936年(昭和11年)に徳川美術館が開館した際の展示解説でした。当時、尾張徳川家第19代当主の徳川義親氏が「三方ヶ原の負け戦の際に描かせた自戒の像」という口伝を紹介したことで、新聞報道や歴史書に大々的に取り上げられ、定説として定着しました。
しかし、原史料を遡ると以下の事実が判明しています。
- 一次史料の不在:戦国期から江戸初期の幕府公式記録(『徳川実紀』や『三河物語』など)には、この絵画の制作に関する記述が1行も存在しない。
- 図像学的矛盾:絵画に描かれている家康のポーズ(あぐらを組み、右手を膝に乗せ、左手を頬に当てる姿)は、仏教美術における「思惟像」や「忿怒(ふんぬ)相」、あるいは中国の隠者・仙人図の系譜に近い特徴を持つ。
- 所蔵経緯の記録:尾張徳川家に伝来した記録は18世紀末以降であり、それ以前の伝来ルートは紀州徳川家や徳川宗家を介した複雑な移動が推測されている。
つまり、「自らの無様な敗北を絵に残して生涯の戒めとした」という美談は、後世の人々が家康という英雄をよりドラマチックに理解するために紡ぎ出した「創られた物語」だったのです。