読者が最も強い好奇心を抱くのは、「なぜ名声を確立していた乙一が、あえて無名の別名義で執筆を始めたのか」という点にあります。
最大の理由は、「乙一」という名前に染み付いた読者の先入観を排除するためでした。初期の乙一作品は、読者の間で凄惨なグロテスク描写が光る「黒乙一」と、透明感ある叙情ミステリー「白乙一」に大別されていました。しかし作家としての知名度が高まるにつれ、「乙一の本=どんでん返しやショッキングな展開があるはずだ」という強い読者バイアスが生まれるようになります。
純粋にストレートなボーイ・ミーツ・ガールの青春小説や、伝統的な和風怪談を書きたいと考えた際、その看板がノイズになってしまう懸念がありました。そこで彼は、「無名の新人」として作品そのものの魅力だけで勝負する実験を選んだのです。
実際、中田永一の初期短編は正体を隠したまま文芸誌に掲載され、山白朝子も「新人女性怪談作家」という触れ込みで単行本デビューを果たしました。作家の名前ではなく、純粋に文章と物語の面白さだけで読者の心を掴んでみせたこの試みは、彼の卓越したストーリーテリング能力を証明する結果となりました。