江戸時代、幕府公認の遊廓として浅草の北・日本堤の南側に造成された新吉原。周囲をお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる堀と高い塀で囲まれたこの異空間へ通う道筋は、日本堤の土手から「五十間道(ごじっけんみち)」と呼ばれる緩やかに屈折したアプローチを通り、唯一の出入口である「吉原大門」へと続いていました。
その日本堤から五十間道への曲がり角に植えられていたのが、見返り柳です。見返り柳の由来は、大門を出て土手へ向かう遊客が、夜明けの別れ(きぬぎぬの別れ)を惜しみつつ、柳の木陰でふと立ち止まり、吉原大門の方向を名残惜しそうに振り返ったという風情にあります。
当時の吉原は、金銭のやり取りだけでなく「粋」や「情」を重んじる独特の社交場でした。一夜の夢から覚め、現実の日常へと引き戻される境界線が、まさにこの柳の立つ分岐点だったのです。俗世と郭(くるわ)の間で揺れ動く男たちの切ない心情は、当時の川柳や都々逸にも如実に詠み込まれています。
「見返れば 意見近道 柳原」
「きぬぎぬの 後ろ髪ひく 柳かな」
このように、見返り柳の歴史と意味は、単なる街路樹の枠を超え、江戸庶民の繊細な心理や遊郭文化の光と影を映し出す重要な文化的モニュメントとして語り継がれてきました。