物語の序盤における無一郎は、他者への関心が薄く「悪気のない毒舌家」として描かれていました。しかし、その虚無感の裏には、あまりにも過酷な幼少期の悲劇と失われた過去の記憶が存在していました。
無一郎はもともと、山奥で木こりを営む両親と双子の兄・有一郎の4人家族で暮らしていました。しかし10歳の時、母が風邪をこじらせて肺炎で他界し、嵐の夜に薬草を採りに行った父も崖から転落して死亡。残された幼い双子は、二人きりで過酷な自給自足の生活を余儀なくされます。
双子の兄・有一郎との決定的な違いは、その性格と価値観にありました。誰かのために尽くしたいと願う心優しい無一郎に対し、有一郎は現実主義で徹底して他人に冷淡。「人のために何かしても無駄」「無一郎の無は無能の無、無意味の無」と弟を突き放す言葉を投げかけ続けました。これは弟を過酷な現実から守りたいという不器用な愛情の裏返しでしたが、幼い無一郎の心には深い傷を残します。
平穏を破ったのは、11歳の夏に突如小屋を襲った一体の鬼でした。無一郎をかばった有一郎が左腕を切り落とされる致命傷を負い、その光景を見た無一郎は激しい怒りで我を忘れ、我流で鬼を撃退します。瀕死の有一郎は最期、神仏に弟の無事を祈りながら「無一郎の無は、“無限”の無なんだ」と言い残して息を引き取りました。この凄絶な体験による精神的ショックから、無一郎はすべての記憶を失い、深い霧の中に心を閉ざしてしまったのです。