武市半平太は文政12年(1829年)、土佐国吹井村(現・高知県高知市)の白札郷士の家に生まれました。本名は武市小楯(たけちこれたて)、通称が半平太で、号の「瑞山(ずいざん)」から「武市瑞山(たけちずいざん)」とも呼ばれます。鏡心明智流の剣術免許皆伝を授かるほどの凄腕の剣客であり、土佐藩江戸屋敷の剣術師範も務めました。
当時の土佐藩には、山内家直属の「上士」と、関ヶ原の戦い以前からの領民系である「郷士」との間に根深い身分格差が存在していました。半平太が属した「白札」は郷士でありながら上士待遇を受ける身分でしたが、それでも藩政中枢への参画には分厚い壁が立ちはだかっていました。
文久元年(1861年)、江戸で尊王攘夷の気運が高まる中、半平太は土佐の同志を糾合して「土佐勤王党」を結成します。坂本龍馬、吉村虎太郎、岡田以蔵らを含む200名近くが名を連ね、藩を挙げて朝廷に尽くす「一藩勤王」の実現に向けて動き出しました。これが、血で血を洗う土佐幕末史の号砲となったのです。