一力茶屋の知名度を決定づけたのは、寛延元年(1748年)に初演された人形浄瑠璃・歌舞伎の不朽の名作『仮名手本忠臣蔵』です。その中心的な山場となる「忠臣蔵 七段目(祇園一力茶屋の段)」において、主君の仇討ちを目指す大石内蔵助(劇中名:大星由良之助)は、幕府や敵方のスパイの目を欺くため、芸妓たちと放蕩三昧の酒宴に溺れる狂態を演じました。
この舞台となった茶屋こそが「一力茶屋」ですが、実はこの名称自体が江戸時代の劇作家による創作でした。当時、赤穂事件(元禄15年・1702年討ち入り)の史実をそのまま舞台化することは、幕府に対する批判とみなされ厳禁とされていました。そこで座付作者の竹田出雲らは、時代設定を室町時代の「太平記」の世界に仮託し、登場人物や舞台の名称を巧妙にもじったのです。
大石内蔵助が実際に通った祇園の茶屋は、当時「万屋萬右衛門(よろずやまんえもん)」が営んでいた「万亭(まんだい・まんてい)」でした。作者たちは幕府の詮議を避けるため、「万」の文字を分解して「一」と「力」の2文字とし、「一力茶屋」という架空の屋号を創り出しました。ところが、作品が江戸・上方で空前の大ヒットを記録した結果、庶民の間では劇名の「一力茶屋」があまりにも定着してしまいます。
その結果、文化・文政期から幕末を経て明治に至る過程で、本家である万亭自身が劇中の知名度を受け入れ、正式に「一力亭」へと屋号を改称するという、演劇の虚構が史実を塗り替える珍しい逆輸入現象が起きました。このフィクションの強烈な拡散力が、後世における「どこかの遊郭にあった伝説の店」という曖昧な誤解の温床となっています。