更科蕎麦の歴史は、江戸時代の寛政元年(1789年)、信州出身の初代・布屋太兵衛(ほりい・たへえ)が麻布永坂に開いた「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」から始まります。
当時の麻布一帯は大名屋敷が立ち並ぶ格式高いエリアでした。保科松平家(会津藩主家)との縁もあり、領地である信州の名産であった蕎麦粉を活かした商売を勧められたと伝えられています。屋号の「更科」は、信州の蕎麦の名所である「更級(さらしな郡)」と、恩顧を受けた保科家の「科」の字を賜ったことに由来します。
やがて更科の洗練された白い蕎麦は評判を呼び、江戸城の御用宿老や諸大名、明治期には宮内省御用達の栄誉を授かるまでになりました。幾多の戦火や暖簾の変遷を経て、その正統な血統を受け継ぎ、今も麻布十番の地で暖簾を守り続けているのが「総本家更科堀井」です。
一方で、検索ユーザーの間で時折話題となるのが「更科蕎麦」と平安時代の古典文学『更科日記(さらしなにっき)』との関連性です。
菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が記した『更科日記』は、平安中期、少女時代の上総国(現在の千葉県)から京への旅立ちや『源氏物語』への憧れ、その後の人生の哀歓を綴った珠玉の回想録(現代語訳でも名高い日記文学)です。この作品名は、作中の和歌「月も出でで 闇にくれたる 姨捨(おばすて)に 何をとて更科とは言ひけむ」にちなんで後世に付けられたとされています。
更科蕎麦の名称も、姨捨山(長野県千曲市周辺)を擁する信濃国更級郡の美称「さらしな」にルーツを持ちます。文学と蕎麦、ジャンルは違えども、ともに「信濃の美しい月と澄んだ情景」という共通の美意識を根底に宿している点に、日本文化の芳醇な深みを感じ取ることができます。