石舞台古墳の被葬者として、歴史教科書でも名前が挙がるのが飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子(そがのうまこ)です。決定打となる墓誌銘などは出土していないものの、歴史学界において馬子説が定説となっている背景には、文献史学と考古学の双方が一致する明確な理由があります。
第一の根拠は、『日本書紀』推古天皇34年(626年)5月の条にある「大臣(おおおみ)馬子薨じぬ。仍りて桃原墓(もものきのはか)に葬る」という記述です。石舞台古墳が位置する明日香村島庄一帯は古代「桃原」と呼ばれた地域に隣接しており、近接する島庄遺跡からは馬子の邸宅跡とされる「嶋宮(しまのみや)」の大規模な遺構が発掘されています。
第二の根拠は、その桁外れの規模と築造時期の一致です。6世紀末から7世紀初頭に築かれたこの古墳は、当時の大王(天皇)陵をも凌駕する土木技術と権力を誇示しています。仏教を導入し、推古天皇や聖徳太子とともに飛鳥の政治を牛耳った馬子以外の被葬者は考えにくいというのが専門家の共通見解です。宮内庁による天皇陵指定を受けていないため、一般人が内部へ立ち入ることのできる希有な巨大墳墓となっています。