「五月蠅い」の基本的な読み方は「うるさい」です。また、文語や特定の文脈では「さばえ」と読まれる場合もあります。どちらの場合も、漢字一つひとつに「う・る・さ・い」という音が割り振られているわけではありません。このように、二文字以上の漢字の組み合わせ全体に対して、日本語固有の単語(大和言葉)の読みを当てはめたものを国語学では「熟字訓(じゅくじくん)」と呼びます。「五月雨(さみだれ)」「田舎(いなか)」「大人(おとな)」などと同じ言語的仕組みです。
では、なぜ数ある季節や昆虫の中から「5月のハエ」が選ばれたのでしょうか。その決定的な理由は、日本人が現在使っている太陽暦(新暦)と、かつての「陰暦(旧暦)」における季節感のズレにあります。
現代人の感覚で「5月」といえば、ゴールデンウィーク前後の爽やかな初夏を思い浮かべがちです。しかし、旧暦の5月(皐月・さつき)は、新暦に換算するとおおむね6月上旬から7月中旬にあたります。まさに梅雨の真っ只中であり、高温多湿で物が腐敗しやすい時期でした。冷蔵設備や近代的な下水処理が存在しなかった時代、この時期になるとハエの卵が一斉に羽化し、家屋内や水回りに夥しい数のハエが群がり、耳元で羽音を立てて飛び回りました。
視覚的な気味悪さ、耳障りな羽音、そして衛生的な苛立ち――これらが一斉に押し寄せる旧暦5月の情景こそが、人間を最も精神的に参らせる「わずらわしさ・不快感」の代名詞となったのです。この生活実感に基づく鮮烈な情景描写が、「うるさい」という感情表現の文字として結びつきました。