清盛の死が同時代の人々にこれほどの衝撃を与えた最大の要因は、彼が亡くなるわずか2か月前の治承4年(1180年)12月に起きた「南都焼討」にあります。
平重衡率いる平氏軍が、反抗的な東大寺や興福寺を攻撃した際、大火によって東大寺大仏殿が焼け落ち、大仏の頭部が溶け落ちるという未曾有の惨事が発生しました。当時の仏教観において、南都の寺院を焼き払う行為は前代未聞の大罪業であり、貴族から庶民に至るまで「平家には必ずや恐ろしい仏罰が下る」と信じられていました。
そのため、清盛が原因不明の猛烈な高熱を発して悶絶死した際、人々は「大仏を焼いた業火が清盛の体内に入り込んで内側から焼き殺した」「東大寺の守護神や盧舎那仏の祟りだ」と直感的に結びつけました。『平家物語』における水風呂の沸騰や炎の幻覚といった描写は、当時の人々が共有していた「因果応報の恐怖」が色濃く投影された結果です。