サグラダ・ファミリアが着工されたのは、日本でいえば明治15年にあたる1882年のことでした。当初の主任建築家フランシスコ・デ・パウラ・デル・ビヤールが無償で設計を引き受けたものの、意見の対立からわずか1年余りで辞任。2代目主任建築家として抜擢されたのが、当時まだ31歳だった無名の青年アントニ・ガウディでした。ガウディは設計を一から見直し、壮大かつ極めて緻密な大聖堂の建設に生涯を捧げることになります。
しかし、なぜこれほど工事が終わらなかったのか。その背景には、単なる規模の大きさだけではない3つの決定的な理由が存在します。
最大の要因は、1936年に勃発したスペイン内戦です。ガウディは1926年に路面電車に撥ねられて不慮の事故死を遂げましたが、生前に膨大な石膏模型やスケッチを残していました。ところが内戦の混乱のなか、無政府主義者によってガウディの工房が襲撃・放火され、残されていた設計図や縮尺模型の大部分が焼失・破壊されてしまったのです。後継の建築家たちは、残された破片を一つひとつ拾い集め、ガウディの幾何学的な意図を推理・再構築するという気の遠くなるような復元作業から再スタートせざるを得ませんでした。
2つ目の要因は、財源の特殊性です。サグラダ・ファミリアはカトリックの「贖罪神殿(Templo Expiatorio)」であり、国家予算や教会組織からの公的支援を一切受けず、建設費の全額を民間の寄付金のみで賄うという厳格な原則がありました。資金が集まれば工事を進め、底をつ外ば工事を中断するという自転車操業が長年続き、経済危機や戦争のたびに現場はストップを余儀なくされたのです。
そして3つ目が、石職人(石工)による極めてアナログな手作業でした。ガウディ建築特有の複雑な三次曲面や自然界の造形を再現するには、熟練職人が硬い石材をノミと玄能で手作業で削り出すしかなく、1つの部材を切り出すだけで数週間から数か月を要していました。