北条高時の実像を読み解く上で欠かせないのが、幕府末期における特異な権力構造です。高時は徳治3年(1303年)、第9代執権・北条貞時の三男として生まれました。わずか9歳で父を亡くし、正和5年(1316年)に14歳で第14代執権に就任します。
幼少にして得宗家のトップとなった高時の背後で実権を握ったのが、北条家の家政を司る御内人の筆頭・内管領の長崎円喜とその息子・長崎高資でした。鎌倉幕府の政治的意思決定は、有力御家人による合議制から、得宗周辺の側近や内管領が牛耳る「寄合(よりあい)」へと完全に移行していました。
長崎親子の権勢は凄まじく、幕府の裁定や人事、恩賞は賄賂次第で左右されたと伝えられます。正現寺の所領争いなどでは双方から賄賂を受け取って判決を覆すなど、武士社会の秩序を根底から揺るがしました。生来病弱であった高時は、嘉暦元年(1326年)に24歳の若さで病を理由に執権職を退き、出家して法名「崇鑑(すうかん)」を名乗ります。しかし得宗の地位に留まり続けたため、長崎一族による専横と御家人層の不満は極限まで高まっていきました。高時は悪政の首謀者というよりも、巨大化しすぎた官僚機構の頂点に祭り上げられた「孤独な最高権力者」だったと言えます。